シニアのコラム2006年12月までの記録

インシャラーの世界−III <契約>(11/8)

技術士 建設部門

福島晴夫

建設関連工事の国際入札で請負者に示される入札書類の契約条項は、国際契約約款(FEDERATION INTERNATIONALE DES INGINIEURS-CONSEILS)を基本として、発注国の国際的な立場、社会、政治、経済情勢、慣習、宗教により、適宜修正加筆して作成されていることが多い。国連、世界銀行、IMF、その他の国際支援機関による融資や日本の海外援助(ODA)は、援助元の規定や要求が大きなウエイトを占めていること、国際的なコンサルタントが契約条項を照査しているなどの理由で、国際解約約款から逸脱する条項は多くない。しかし、運用には注意すべきである。国際援助が不要な富裕国が発注する工事の契約文書は、国際契約約款を手本としているが、発注者()の利益を最優先に考え、国際的な常識では、疑問を呈する条項を含むことがあるので注意が必要である。

建設関連工事(建築・土木工事、その他)は、基本的に契約金額に直接・間接工事費、一般管理費、諸経費などのすべての費用を含み、利益は総工事費から捻出しなければならない。これに対して、電力プラント工事のように製造業の製品納入に付帯する建設工事では、製品の利幅が大いため、建設工事で利益を追求する必要性は少ないように感じる。ここに、建設業と製造業の大きな違いがあることが解ってきた。(日本では、発電所建設などの大規模建設工事は、建設と電気工事等を分割発注している。)

このように工事の資金調達方法や工事の種類、工事内容による契約の違いを事前に認識することは、工事管理において重要であり、工程計画、品質管理、安全管理、下請の選定など、工事の成否に影響することがある。

トルコの道路改良工事は、日本の資金援助(ODA)により計画され、契約書類は、工事監理コンサルタント(日本)FIDICに準拠して監修したものである。契約書類は問題なかったが、運用上多くの問題が発生した。

カタールの工事は、政府機関の自己資金によるもので、契約書の骨子は、FIDICに照らし合せると類似した点が多く、発注者がFIDICを参考に独自の契約項目を付け加えたと考えられる。しかし、クレーム条項や設計変更(Variation Order)条項に国際的な建設工事の常識から逸脱した内容が含まれている。

いずれの工事も、発注国の経済情勢や技術レベルを反映しており、契約書を比較するだけでもかなりおもしろい。

<トルコ>

 トルコは、日本との友好関係も長く、親日的で、毎年、多くの観光客が訪れている。表面的には、素朴で友好的な国であるが、長く暮らすと、この国の問題点が次第にわかってくる。トルコは、アタチェルクの独立戦争以来、強力な軍事態勢を維持しており、上意下達の方針は非常に強固である。表面的には民主国家ではあるが、根底にはイスラム教の教えが面々と流れており、民主国家としては、いささか疑問に思う所が多い。

トルコについて調べたところによると、ロシアの黒海艦隊に苦しめられていたトルコ人は、日露戦争で、日本がロシアに勝利して以来、日本に対して非常に好感を持っているという話しで、同様なことが旅行ガイドにも記述してあるが、このような伝説的な話題は、現在、トルコの若い人には通じないようだ。現在は、ブルースリーやジャッキーチェンが演じるカンフーの映画が若年層に浸透し、日本人を見るとChin(中国人)と騒ぎ、両手を会わせてカンフー流のお辞儀をする。いささか笑える光景だが、トルコ人の日本に対する認識は、この程度なのかとがっかりしてしまう。トム・クルーズのLast Samuraiが私の住んでいた田舎町で上映されたが、意味が理解できたトルコ人は少ないだろう。

トルコは、国際化が遅れており、トルコ政府は、EU加盟を盛んにアピールしているが、今の所、EUからは拒否されている。トルコにいると、この理由が良くわかる。

トルコ社会は、軍事態勢の影響からなのか、完全な縦割り社会である。日本でも、行政の硬直化の原因として、官庁の縦割り行政が取りざたされているが、トルコの縦割り行政は更に厳しく、異なる部署間の連絡が全くないばかりでなく、上位から下位への権限委譲がほとんど行われていないように感じる。官庁に所管事項を申請すると、まず、窓口の係官が対応し、申請書類が徐々に上層部に回る。しかし、簡単な内容の書類でも中間管理層に許可の権限が与えられていないため、局長クラス、またはそれ以上の上層部が判断を下す組織のようだ。

窓口の係官は、自己防衛と責任回避のため、もしくは上層部の受けを良くするために、自分と上層部の意向を満足している書類以外の提出書類をなかなか受理しない。また、提出された書類でも、自分に都合の良い文章に書き換えることを要求したり、抹殺してしまうことさえある。これでは、業務が滞ることは明白である。

イカメットと名付けられた長期居住許可は、大使館でワーキングビザを取得後、各市町村の警察に申請する。滞在期間に応じて、かなり高額な手数料を取られる。さらに、申請書類の許可が下りるまで、1ヶ月以上を要することが慣習になっているようである。もちろん、市の上層部の知り合いに状況を一言話すとすぐに許可が下りるけれど(この点は、あまり日本と変わらないか?)。自宅への電話回線導入も、2週間ほどかけて回線チェックをした後、電話回線が引き込まれたのは、申請後、3週間程度後だった。理由を聞くと、インシャラー。

いくつかの官庁にまたがって許可が必要な書類は、数ヶ月の遅れを覚悟しなければならない。外国人がこの状況を打開するためには、ある程度の袖の下が必要になる。このような国が、EUのように民主的で個人の権利を認め、責任を問う社会に加盟することは、近い将来において、ほとんど不可能な気がする。

国際社会の常識は、ほとんど通じない。複雑な話しの最終段階で問題の改善を要求すると、最後は、「ここはトルコだから」、「インシャラー」で終わってしまう。

技術士に関連して述べると、トルコには技術に関する制度がないようだ。一般に、技術士は、Professional Engineerまたは、Registered Consulting Engineer等と英訳し、取得者の技術能力を評価することができる資格である。さらに、APEC Registered Engineerは、海外でも十分に通用する資格と考えている。先進国では、技術レベルを資格により判断することが当然と考えるが、この国ではほとんど通用しない。

一般市民の間では、国際化に適応しなければならないという意識の人も多い。中学校ぐらいから、英語を勉強するために、子供を遠隔地の学校に寄宿させる親もいる。小学校も、英語教育に力を入れているらしい。残念なことに、トルコ語は、日本語と同じウラル・アルタイ語族に分類されるため、主語、動詞、目的語の配置が英語と異なる。このため、日本人が英語を勉強する時と同様の困難に直面している。もちろん、宗教も一つの壁になっているようだが・・・・・。

話を本筋に戻そう。

トルコの道路改良工事では、設計をトルコ国内のコンサルタント会社が請け負った。契約書類は、施工監理を受注した現地のコンサルタントと日本のコンサルタントのJVおよび、発注者から派遣されたコントロールエンジニアという現場監理者(Trugai Bay)が共同で作成した。契約書の作成は、発注者、現地のコンサルタントともに国際契約の経験に乏しく、発注時期が1年以上ずれ込んだ。設計完了後、トルコの総選挙でイスラム系の政党が実権を握ったことも、発注の遅れに影響していたのかもしれない。

契約書の内容は、トルコの政治・経済情勢を強く反映しており、出来高払いやTaking Over Certificate(引き渡し証明)の条項に変更を加えられているが、概ねFIDICを踏襲している。

工事は、全長80km以上と長く、トンネル、橋梁、鉄道横断など、技術レベルの高い工種を含んでいるため、技術レベルと経験の豊富な施工業者の選定が望まれた。資金面は、日本のODA資金が工事費の大半を占めており、感覚的に日本のゼネコンの受注が期待された。しかし、結果は、トルコの政財界に根を張った中小規模の建設業者となった。トンネルを含み高い技術レベルを要求される工区は、日本の大手ゼネコンが競争に残ったが、他工区で二番札を入札した業者が高額の賄賂を使い横滑りで受注したという噂だった。

トルコ政府は、不正行為の撲滅を公約しているが、公然と賄賂がまかり通っている社会だ。賄賂を使って自分の地位を高める画策をしているトルコ人は多い。帰国後、トルコに駐在した経験のある日本の大手商社マンに受注業者の名前を話した所、有名な政商だとの回答が帰ってきた。

契約上、コンサルタントの報告は、発注者の現場監理者が妥当性を判断して支局に提出される。支局は、局長の判断で本局に提出する。この過程で、現場の監理者が本局のエライさんと通じていた場合、支局長の決定は覆される。支局長が、コンサルタントの判断を妥当として本局に提出した書類に現場の監理者が文句をつけて、支局長が更迭される事件が起こった。支局長は、地位保全の裁判を起こして勝利したが、本来の役職に戻ることはなかった。

日本では、談合問題が長い間、新聞をにぎわし、談合に関する多くの出版書籍がベストセラーになっているが、トルコで仕事をする場合、賄賂の使い方次第でどうにでもなる国であることを肝に銘じるべきだ。

発注者の現場監理者は、契約書の内容をかなり気にして、コンサルタントに何度も確認している。その上で、契約条項にない内容をコンサルタントや施工業者に要求してくる。この工事では、現場監理者が、自分の私用で使った電話代やガソリン代、その他をコンサルタントに要求してきたが、コンサルタントのPMが拒否したために、何事にも邪魔をされる結果になった。この監理者は、自分の犯行がばれるようなサインは、絶対にしない。コンサルタントが拒否すると、当然のことながら施工業者にたかりに行く。最悪のパターンだ。

トルコ人にとって賄賂を要求することもインシャラーなのか?とにかく、発注者の下っ端には気をつけることだ。

後述するカタールのように、王政の国でも賄賂を要求されることは皆無である。現場監理は、海外の出稼ぎ技術者が担当しており、薄給の彼らに業者サイドが気を遣ってパーティで接待する程度である(ただし、イスラムでは、「ちょっと一杯」というわけには行かない。神罰が怖い)カタール人でない彼らは、賄賂がカタール人にばれたら、直ちに国外退去になるだろう。

トルコは、民主主義国と言っているが、クルドの人権問題やサイプロスの紛争などを見ても、民主主義とはかけ離れている国であることを理解すべきだ。

<カタール>

 20061016日の日経に、丸紅鰍ェカタール水電力公社(KAHRA MAA)から約2,800億円の火力発電工事を受注した記事が載っていた。カタールは、現在まで、現地の新聞などに掲載されているだけでLNG工事、ガス液化プラント工事(千代田化工、日揮、東洋エンジ)、アジア大会施設建設工事、POG ProjectNorth Beach観光開発、新空港工事(大成建設)、学園都市構想等の大規模建設工事が目白押しである。

規模が大きな建設関連工事は、規模の大きな建設業者やプラント業者を雇用するので、それなりにしっかりした資金計画と管理が可能であろう。しかし、大規模な工事でも、契約上、インシャラーの世界特有の様々な問題を生じる可能性が大きい。

建設工事は、ビル建築工事のように限定された区域内で施工されるタイプと、一般建設工事のように公共の用地(道路、鉄道、橋梁等)を通過する区域を限定できないタイプがある。道路工事やこれと類似した工事は公共用地で施工することが多く、現地の道路管理者、公共用地管理者、河川管理者、その他の機関から規制を受けることが多い。海外工事契約は、遵守すべき法律や規則が契約書に明示されており、これらの内容を熟知しないと、工事遂行上、思わぬ落し穴に陥り、工期・工程・工費の増加の原因になる。

 カタールで担当したKAHRA MAA発注の地中電力ケーブル敷設工事は、それまでの建設工事契約の常識が通用しないものであった。契約形態は、ターンキー方式ではないため、起点の変電所(Doha North Super Sub-Station)から終点の人工島(Pearl of the Gulf Island)までのルートは事前に決定してあった (契約後一部変更)。しかし、ケーブル埋設に必要な現地の地形・地質情報、既設埋設物情報、ケーブルを埋設するためのトレンチの幅・深さ等の設計情報は皆無である。更に、将来建設される道路、その他の施設の計画を盛込んだルート設計の義務が契約書に明示されている。まだ発注されていない都市計画を、請負者が自己資金で調査し、調査結果を発注者に報告するとともに、これに基づいた設計を行うように義務づける考え方は、将来、都市の調和を考える上で問題が残るのではないか。最も、都市計画は、鶴の一声で容易に改変できるけれど。


Pearl of the Gulf Island完成予想図


国際入札で、発注者と請負者の間に立つはずの設計・工事監理コンサルタントは、基本設計後、発注者との契約が終了している。請負者は、独自に設計コンサルタントを雇用して設計図面を作成し、発注者に許可を申請するしなければならない。驚いたことには、請負者と設計契約したコンサルタントは、発注者が別途工事のコンサルタント契約を結び、請負者は、発注者から設計コンサルタントとの契約の終了を強要された。工事開始後、わずか2ヶ月後のことであった。すでに、全ルートの半分程度の設計は完了しているので、新規に別のコンサルタントを契約することは、工事全体の遅れを招くため難しい。これは、当然のことながらクレーム対象になる。しかし、自分たちが世界の尺度だと考えている発注者は、国際契約約款をいとも簡単にねじ曲げる。これは、首長制を敷いているインシャラーの世界独特のことではないだろうか?納得がいかないならば、工事を受注する資格はないといわんばかりだが、「王様に逆らうことはできない」と諦めがつくだけ、トルコよりはましである。

契約書は、クレームに関する条項に大きな制限を設け、設計変更等のクレームを避けるように工夫されている。契約の基本文章は、FIDICを参考にしていると思われるが、発注者の雇用している技術者は、海外からの出稼ぎ連中でレベルが低く、先進国の技術者と交渉し、適切な判断を下すことが難しいたことに対する処置であろう (彼らは、技術的な交渉では、ほとんど勝てないことを知っている?)しかも、契約書は間違いだらけで、Native Englishならばクレームが容易であろう。Confirmation Letterを送付しても返事すらよこさない連中相手に、工事終了後のネゴで変更費用を獲得できるという日本的な感覚は、インシャラーの世界で通用するものだろうか?

FIDICに準拠しないアラブ諸国の国際建設工事契約は、契約のタイプ、契約書の内容、設計・管理コンサルタント、入札前の事前説明と現地調査の有無、下請の能力など、ゼネコンで一般的に実施されている調査、評価以外の注意が必要になる。(カタールの工事に関する問題点の詳細は、別途に書加える予定)

海外コンサルタント業務で契約書類は、比喩的に、バイブルのように絶対であり、何人も変更することのできないものと教えられた。トルコでは、発注者のエンジニアにバイブルの意味を理解させるまで時間がかかったが、カタールではバイブルは通用しない。イスラム社会に取って、バイブルは抹殺すべきものである。


インシャラーの世界−I(10/9)
技術士 建設部門
福島晴夫
インシャラー、正確にはインシャーアッラー、の意味は、「アッラーが望み給う通り」と訳されている(鈴木紘司:イスラームの常識がわかる小辞典)。欧州とアジアの架け橋であるトルコと、アラビア半島の世界有数の富豪国カタールで合計2年以上、建設関連工事に従事し、この言葉「インシャラー」には、悩まされ続けた。
トルコは、オスマン朝の崩壊後、一時的にイギリス統治され、1929年にケマル・アタチェルクが独立戦争に勝利し、独自のイスラム国家を建設した。彼は、欧州文化を広く取り入れ、それまで使っていたアラビア文字を廃して、アルファベットによる表現を取り入れた。独立と同時に、民主主義に移行したが、国内統治のために非常に強い軍政を敷いていることが、長期滞在をしていると良く理解できる。
カタールは、1970年代まで、イギリスの委任統治領で、その後独立したが、独立後に発見された世界最大級のガス田の権利を隣国のバーレーンから有利な条件で分割し、有数の安定財政国になっている。国家形態は、基本的に首長の家系を引き継ぐ王政であり、全人口約240万人のうち、1/3を占めるカタール人が実権を握っている。
インシャラーという言葉を最初に聞いたのはトルコだった。工事施工業者のエンジニアに建設機械やコンクリートが時間通りに到着せず工事の遅れが発生するので、到着時間を再確認したところ、インシャラーという言葉が返ってきた。確かに神のみぞ知ると言うことだから、この回答は正しいかもしれない。しかし、10時に到着予定の資機材が午後になっても到着せず、果ては明日になるか、明後日になるかわからないのでは、計画の立てようがない。かなり文句を言ったが、出てくる言葉はインシャラー。最後には勝手にしろと言うことになる。このため、インシャラーという言葉は、私の頭の中でいい加減な言葉の代表になってしまった。トルコ人の説明を聞いている限り、インシャラーは、いい加減で約束を違えたときのいいわけにしか聞こえなかった。
カタールに来て、現地雇用したイスラムのスタッフにインシャラーの正しい意味を教えられた。彼らが、アラビア語で会話しているときに、時々インシャラーという言葉を聞く。後で内容を確認すると、英語のSurely, Exactly, Definitelyと理解できる。要するに、確実だということだ。日本に直すと「神に誓って」と訳すことができるかもしれない。それでも、遅れることは日常茶飯事だが!
敬虔な?イスラム教徒は、あまりこの言葉を使わないことに気づいた。トルコでは、日常茶飯事にインシャラーを使っている。カタールでは、日本人に対して滅多にこの言葉を使わない。これには、宗教的な意味合いがあるかどうかは不明だが、異教徒を廃するイスラム教では、このような神聖な言葉を頻繁に使うべきではないのかもしれない。
仕事上、自分のスタッフがインシャラーといった場合には、かなり信用度が高いが、利害関係のある他社との会話で使うインシャラーは、単なる言い逃れの傾向が強い。最も、インド人のように、とにかく言い逃れで自分の責任を回避しようと、様々な理由を並べ立てることに無駄な努力を惜しまない連中よりは、インシャラーの方が、こちらも「どうしようもない」で少しは納得できる。しかし、「ではいつまでにこの約束をやってくれるのか?」と質問しても、インシャラーではたまらない。
イスラム教では、基本的に「正直であること」が教えであるが、アラビア人(サウジアラビア、イラン、イラク、クエート、ヨルダン等)、エジプト人、インド人(イスラム)、パキスタン人などは、日本人から見ると「信じてはいけない人間の部類」に属する。旅行者のパンフレットばかりでなく外務省の対外危険情報にも、「アラビア系の人が近づいてきたら十分に気をつけること。」との趣旨の文章が見られる。貧富の差、侵略と戦争を繰り返している歴史から、日本人には理解できない人間関係を形成していることが多い。このためか、イスラムの挨拶では、互いに頬をつけて、キスのまねをする。
アラブ世界は、日本に対する最大のエネルギー供給源であり、最も重視すべき国々であるとともに、大きな市場でもある。カタールは、日本企業が合計1兆円に上るエネルギープラント工事を受注しており、今後も新規案件が目白押しである。アラブ世界には、キリスト教(十字軍)に深い恨みを持っている国も多い。当然のことながらアラブ諸国にとって、USAの押しつけ民主主義は迷惑極まることだが、USAの軍事力に頼らなければならないジレンマを抱えている。アメリカナイズされた世界標準は、この地域では通用しない。中東(アラブとその周辺諸国)との付合い方には、予測できないリスクが発生することを覚悟しなければならない。
アラブ諸国を世界のエネルギー基地として有効に使うか、あるいは世界の火薬庫と評価するかは、今後の先進各国の考え方次第である。
「海外の国を理解したいと思ったら、その国に最低1年間暮すこと。」が私の持論である。
インシャラーの世界では、トルコとカタール滞在時に起こった様々なエピソードを綴ってみたいと思う。これらのエピソードが、イスラム社会の理解に役立つならば幸である。

インシャラーの世界−II<資金と財政の背景>
技術士 建設部門
福島晴夫
 企業が海外進出で成功を収めるためには、あらゆる手段を用いて対象国の経済・産業情勢を事前に十分に把握し、起こり得る状況に対する管理方法を検討し、管理体制を作り上げることであろう。それでも、予想できない問題が発生する。イスラム社会は、一般の日本人の考え方と全く異なった世界である。信頼できる現地スタッフを雇用し、日本人の考え方と現地の考え方の妥協点を模索して、現地の状況に適合するような業務計画をすることが大切である。
 個人がコンサルタントとして海外業務に協力することは、様々な障害を克服しなければならない。対象国に関連する資料・図書の調査、Internetによる現状調査などが個人で出来る範囲であろう。このような情報を集めても、現地に赴任して業務を遂行するための十分な情報を得ることは出来ない。
 プロジェクト実施では、担当する業務に割当てられた予算ばかりでなく、対象国の財政状況が大きな影響因子となる。イスラム社会において、ODA対象国トルコとODAに無縁の富裕国カタールに1年間暮し、遭遇した様々な出来事から得られた個人的な知見を書いてみようと思う。
<トルコ(2003年〜2004年)の状況。>
海外に暮らしている人にとって当然の事ながら、為替の変動は、収入に対する可処分所得を考える意味で、常に頭の隅にあることだと思う。特に、トルコのように、一時的にせよ過去のインフレ率が100%を超えたような国では、自分の可処分所得が、いつ、どのように変化するかが大きな問題である。当然、契約が円建てで多少の為替の変動では影響を受けないとしても、長い間、トルコのような物価の安い国にいると、為替の変化と購入できる商品価格を考えた場合に、たとえ1円の変化でもかなり大きな影響になるし、精神的にも良くない。最も、トルコの貨幣価値に慣れてしまった今、日本に帰っても、昼食の代金を支払う事でさえ、大変な精神的苦痛を強いられることになるだろう。ちなみに、5,000,000 TL(400円前後)も出せば、かなり贅沢な昼食が食べられるのだから。
トルコに赴任した2003年3月から、1年が経過した。トルコの金融不安が国際社会で取り上げられてからの為替の変動を考えてみると、2000年末の銀行破綻を発端とした為替の下落は、2001年の10月に1 US$= 1,600,000 TLと最高値を記録した後、2002年前半に1 US$= 1,300,000 ? 1,400,000 TLとやや安定した。しかし、2002年7月から再び下落し始め、米国がイラクに侵攻したイラク戦争の勃発前まで、1 US$=1,600,000 TL程度で推移しており、このときの円・ドルレートは120円弱であった。イラク戦争が始まると、トルコリラ(TL)は急激に下がり、2003年4月頃には1 US$=1,700,000 TLの最安値を記録し、100円は、1,420,000 TLまで上昇した。この為替の下落には、同時期にトルコ国内の政治的な混乱があったことも要因としてあげられる。さらに、イラク戦争中、米国に国内の基地提供を拒否し、130億US$もの巨額な資金援助獲得に失敗したこともトルコリラの下落に拍車をかけたと思われる。
しかし、イラク戦争が短期間で終了し、2003年4月中旬からUS$のトルコリラに対する為替レートは下降に転じ、その後、米国の対外経済収支の悪化や景気の下降によるドル安、ユーロ高に伴って、一時1 US$ = 1,200,000 TLまで下降した。実に、約9ヶ月で最高価格に対して35 %強の変動をしている。
2003年末から2004年初頭にかけて、US$の対円レートは、1 US$= \ 105近辺まで下降し、数回にわたる日銀の介入により、2004年3月に突然1 US$ = 112円まで上昇した。さらに最近は、US$がEUROに対しても下落している。円とUS$, ユーロの為替変動については、日経の為替変動を参考にしている。
それでは、US$が円やEUROに対して下落した後、円とトルコリラの関係はどうのようになったのだろうか?トルコは、1996年にEUの関税同盟に加入しており、為替の変動はユーロと同歩調なので、当然、トルコリラもユーロ高につられて上昇する。このため円建て契約では、昨年に比べて為替損を生じる。
日本経団連との懇談の中でトルコ外相が、イラク戦争後の為替レートの改善や2002年からの内需主導による景気回復の効果で、「トルコの経済成長率は8%と中国に次ぎ世界第二位である」と答えたことなどから、単純にトルコ経済は順調な回復軌道に乗っていると思うのが正しいのだろうか?
トルコは、2000年末から2001年初めに2度の通貨危機に陥り、IMFから310億ドルに及ぶ巨額支援を受け、支援の条件として「徹底した緊縮財政、インフレ抑制、銀行部門改革」を求められた。この為替状況悪化のために、2001年2月には、変動相場制に移行している。
イラク戦争が終了した2003年4月から為替市場は徐々に反発し、トルコ外相の発言にあるようにIMFの予想(4%)を上回る高度成長を遂げ、今後状況が変化しなければ2004年度もIMFの支援条件に適合する5%以上の成長率を維持できるとされている。
 先進諸国の成長率が低迷している中で、このような高度成長を維持できるトルコ経済ならば、インフラ整備の工事に関しても十分な予算配分がなされると見て当然であろう。
私の従事しているボズイク−メケジェ道路改良工事は、日本国際協力銀行から290億円強のアンタイドローンが供与されている。新聞やI-netから得られる情報では、トルコ政府が当工事に配分した今年度の実施予算は、ローンの10%以下である。これは、他の円借款工事についても同様のようである。しかし、実際の工事予算は、年間10〜20億円で全工期の5年間で、工事開始後1年経過したが、出来高はわずか3%に過ぎない。円借款を全工期の5年間で使い切ることはかなり困難である。このような少額予算は、何を意味しているのだろう。
 トルコは、対外ファイナンスと対外債務が重荷となり、経常赤字と債務の元本返済のために、年間300億ドル強の外貨を相当の期間確保しなければならない。公的債務は、歳出の約45%を金利支払いが占める(2002年)という極端な財政の硬直化をもたらしている。2003年には、金利低下やトルコリラの上昇により、金利支払いの増加に歯止めがかかったが、それでも歳出の40%強を金利支払いが占めており、財政の自由度は極めて低い。
 しかしながら、IMFと交わした経済再建計画目標を達成するためには、政府消費や公共投資の減少が国内経済に与える影響を無視しても、黒字目標を達成して国際的に信頼を回復し、インフレ率と金利の一層の低下を計り、個人消費・民間投資の拡大を期待する政策をとっているようである。
 トルコの2001年から2003年における失業率は、実に10%前後で推移している。この高失業率を低減するためには、公共投資の促進による雇用の拡大が考えられるが、トルコの現状の経済状態では難しいと思われる。従って、当工事の年間予算も増額される可能性は極めて少なく、工事完成時期は、すでに「神のみぞ知る」インシャラーの世界になっている。
 在トルコ日本大使館は「顔の見えるODA」を期待したようであったが、現状では、顔の見えるどころか、「いつの間にか消えてしまう」ODAになりかねない。このような国際政治上問題は、私のような素人が口を挟むべきではないが、ODA対象国への貢献と技術移転を目標に努力している技術士にとって、存在感を失いかねないほど残念なことである。
参考資料
JETROニュース、日本経団連活動レポート「経済クリップ」、JBICホームページ、丸紅経済研究所調査報告、他

<カタール(2005年〜2006年)>
 現在、カタールは、日本のバブル経済発展期を彷彿させるような、建設ラッシュである。2006年12月に開催される予定のアジア大会を目指して、首都ドーハの市内は、高層ビルの建設ラッシュで、至る所で道路の新設・改良やスタジアム、ホテルなどの収容施設を建設している。これらの工事は、アジア大会までの完成が義務づけられているので、すべてが突貫工事で品質は二の次になっているようだ。
カタール首長府の周辺は、景観を害するという理由で、周辺のビルの解体・移転が始まり、新築のホテルなども例外なく移転対象になっている。建設と解体が並行することは大きな矛盾だが、王族の意向ですべてが決る首長国では仕方がないことだろう。噂では、解体・移転工事は、すべて政府の資金で実施され、さらに移転先の確保と新しいビルの建設、移転保証金まで政府がすべて出費しているらしい。これを目当に、取壊しを要求されそうなビルに新しくテナントの権利を獲得して、解約時に違約金をせしめようとする輩が多いと聞いた。
カタールの経済は、近い将来年間生産量7,000万トン以上に達するであろう世界最大級の天然ガスから成立っている。国民1人あたりのGDPは、世界のトップで、この豊富な資源に国際シンジケートが目を付けている。最近の石油やエネルギー資源の高騰により、自国資金や海外資金による開発案件が目白押しである。アラブ諸国は、利子を認めないイスラム独特の金融システムであるが、先進国の金融取引機関も宝の山を見逃すことなく、積極的に進出を模索している。カタールも天然ガス先物取引所を新設し、マネーファンドを取込もうとしている。(日経:資源ウオーズ;Sep 2006)
日本のような資源小国にとってカタールの天然ガスは欠くことのできないエネルギー源で、最初に着目した中部電力を始め様々な企業群が、合計1兆円以上のプロジェクトを受注している。今後も、このようなプロジェクトは、増加する傾向にある。
在カタール日本大使館は、文化交流と教育援助に力を入れており、日本古来の芸能(琴、能)などの使節の講演会が開かれている。また、カタールの政府関係者の日本留学も推進しているが、イスラムの戒律が厳しいカタール人には、あまり評判が良くないようである。
カタールの経済を底辺で支えている技術者や労働者は、アラブ系(エジプト、シリア、レバノン、サウジアラビア、イラク、スーダン他)とパキスタン、インド、イラン、フィリピン等の海外からの出稼ぎ組であり、実質的な労働基盤は強固でない。出稼ぎ労働者は、ある程度の資金を得ると、物価の低い自国に豪邸を造り、帰国することが多い。従って、技術的な発展の基盤となる技術の蓄積は望めず、海外先進国の技術に依存する経済体制である。
カタールのインフレ率は、外務省データ(2004年)によると6.8%とかなり高い水準にある。全人口の約1/3がカタール人で、その他は海外から流入した低所得者層が圧倒的に多数を占めており、日常必需品に対するインフレ率は、低所得者層が生活を維持し、母国の家族に送金できる程度に低く抑えられていると思われる。衣料・食料などの日常生活必需品、工業製品、医療品のほとんどすべてを輸入に依存しているこの国では、食料品の一部を除いて、日本とほぼ同程度の物価水準で、あまり暮し良いとは言えない。最近では、家賃の高騰が著しく、オフィース街のビルの賃貸料は、1年間で2倍近く跳ね上がっている。
カタールの国土は、ほとんど全土が土獏である。しかし、首都ドーハは、水のない無味乾燥な土獏にいると思えないほど水と緑が豊富で、夜になるとビル照明やネオンで彩られる。海水の淡水化技術と電力の低価格により、全く不便を感じない。夏の日中の気温は40℃〜50℃で、湿度も高く、冷房なしでは仕事が出来ない。このような過酷な自然条件でも、天然ガス資源のおかげで経済活動は盛んである。
財政が豊かで経済的に安定しているカタールは、なんでも先進国なみを要求している。例えばビル建設工事では、構造材として地震国日本なみの鉄筋量を使用し、他の材料も最高品質を要求する。低コストや省資源化は考えていない。残念なことに、工事を管理している技術者や労働者の技術レベルが低く、品質管理が貧弱なために、せっかくの高価な素材も特性を生かすすべが無く、宝の持腐れ感が強い。
カタールもアラブ首長国連邦と同様、天然資源が枯渇する前に経済基盤を強固にするため、観光開発を積極的に推し進めている。しかし、自然環境が過酷で、歴史の浅いカタールがドバイのように世界的な原油取引市場に成長するには時間が必要であり、この動きは始った所である。


カタール便り8

 インシャラーの世界「学ぼうとしない人々」

技術士 建設部門

福島晴夫

カタールの仕事も、そろそろ終了になる。短い工期で、しかも設計図なしで始めた仕事も何とか先が見えた。技術士を必要とする仕事は終了した。

1年間を振り返って実に残念なことは、技術移転が全くできなかったことである。日本の土木技術は世界に冠たるものと考えているが、技術の水平展開がなされなかったことは、誠に残念であるとともに不満である。最も、この工事はODAではないので、特に技術移転は求められない。

これまで経験した海外工事の多くは、それまで知り得なかった新しい技術や先端技術を自分のものにしようと、厳しい仕事に耐え、文句を言われながらも必死に勉強してきた現地技術者の姿が印象的だった。しかし、トルコ・カタールの両国では、このような姿は全く見られない。

中国・ベトナム・台湾・シンガポールなど、東南アジア地域の経験では、地元の技術者が、新しい技術を学ぼうと目を輝かせ、日本の技術者からいかに技術を盗み取るかが彼らの目標であったような気がする。ODAの契約条項にも、技術移転が1つの課題として示されており、相手国の政府機関から直接技術者が派遣されて、技術の習得に励んでいた。

トルコのODAの契約条項は、技術移転が明確に述べられていたが、新しい技術を学ぶよりも自分たちの体験を通じて習得した感覚を重要視する。トルコの技術者の教育レベルは比較的高く、しかも地震のような大規模自然災害に恵まれている?ので、建設技術は否応なしに発展する可能性を秘めており、日本のような地震先進国?の建設技術を受け入れる下地は整っている。また、西欧諸国、特にドイツの技術がかなり浸透しており、専門分野の学会では、土木分野で新しい国際的基準を提案している先生もいる。この先生の研究室を訪ねたら、資金不足で十分な試験装置が購入できないため、日本の政府研究機関の援助を受けられないだろうかとまじめに訪ねられたこともあったけれど。

カタールの建設工事では、新技術であろうが、一般化された技術であろうが、技術に対して意見を求められたことはほとんど無い。技術的な議論で工事の問題点を明確にしようとしても、相手側の土木担当技術者が議論を避けてしまう。主にイン人だが、彼らの能力レベルを窺い知ることが出来る。

電気関係の工事では、土木技術に対する興味は全くないかもしれないが、少なくとも、地下に電線を埋設するためには、地下を掘削することが前提条件であろう。しかし、この国で地下ケーブル敷設に携わっている技術者は、地下のことは全く知らないに等しい。

技術の対象が異なるために、単純に比較することは難しいが、優れた技術を学ぶ姿勢が見えないことは誠に悲しい。インド・パキスタン・エジプト・シリア・ヨルダン・サウジアラビア・イラン・フィリピンなど、様々な国の技術者が、新しい就職口に自分を売り込むことで躍起になっている。しかし、経験したことがない技術に対する懐疑心は非常に強く、多くの場合に拒否反応が先行する。

交通の頻繁な道路横断に、大口径の水平ボーリングを多用している。ボーリングの発進と到達箇所には作業用のピットが必要になる。このピットの中で仕事するために、ピットの規模は、縦・横・高さともに4m程度必要になる。海岸近くでは、地質が不良(砂・粘土等)で地下水の浸透があり、ピットの壁面が崩落することが多いため、何らかの対策が必要である。

インドやアラブ系の業者では、地下に対する技術は皆無に近い。コンクリートを打設すると沈下してどうしようもなくなると注意しても馬耳東風。当然の結果として、失敗に終わる。たまたま日本企業の下請け経験のあるフィリピンの業者がいたので、施工を依頼した。誠に納得のいく支保の方法で、発注者から賞賛を得た。他の業者に見習えと言っても、誰も見ようともしない。

学ぼうとしない人たちは、ムスリム系のインド人とアラブ人。非常にプライドが高く、自分たちが最も優れていると誤っているのではないか?対策の要不要、崩壊の発生は、所詮、インシャラーだから、あえて努力をする必要はないのだろう。

カタール便り 8 (汚水処理)

 

人口が集中する近代都市では、毎日の生活用水、し尿処理などの汚水処理が大きな問題になることは周知の事実である。特に、生活圏とビジネス圏が近接している小規模な都市では、人口増加に伴い汚水の処理量は鰻登りになり、確実に将来の公害問題を引き起こす。   この傾向は、急激に発展した都市とその周辺部に顕著に現れる。

カタールの首都ドーハは、中心の10km圏内にビジネス街や住居地域が集中している。汚水処理施設がほとんど無いので、一般住宅の生活排水は地下浸透式になっていることが多い。これは、トルコの田舎町でも同じだし、20年ほど前に一時暮らした神奈川県座間市の住宅でも同様だった。

地下浸透式と言っても、浸透の状況は、地下の地層分布によって異なる。東京のように地下水が豊富で砂質分の多い沖積堆積層で構成される地盤では、汚水の浸透は地下深くまで達し、希釈・濾過されて、地下水汚染の大きな問題は起こりにくかった。少なくとも、江戸時代から数百年の間に渡りこのような汚水処理が続けられてきたと思われるが、都市排水で河川が汚染し大きな問題になったのは、記憶にある限り30年ほど前からである。私の子供の頃は、東京のどぶ川でザリガニつりをしていた記憶がある。

地下の地盤が岩盤で構成されていると、状況は一変する。カタールは、独立後、35年程度しか経過しておらず、大ガス田が発掘されて、近代的な急撃の発展が始まったのは、ここ10年程度の期間だ。従って、汚水が地下に浸透処理された歴史は、東京に比べて著しく短い。しかも、海水の淡水化技術により、容易?に水を確保できるようになってから、あまり長い時間を経ていないだろう。

地下の浅いところに、透水性の低い岩盤が広がっていると、地表から浸透した水は、岩盤層に遮断されて深くまで浸透せず、平面的に広がり海に流れ込む。ちなみに、カタールは、サウジアラビアとの国境部を除いてすべて海に囲まれており、最大標高は100m程度で、ドーハ周辺は20m以下である。

海岸付近は、リゾート観光開発が盛んで、私の担当するプロジェクトの電力供給先である人工島(Pearl of Gulf)や、高級リゾートの建設が進んでいる。これらは、首長とその一族の所有物なので、対応が難しい。

建設中のリゾートビルに近接して、ケーブル敷設用のトレンチを掘削していたら、地下水が湧き出てきた。異臭を放つ。トレンチに近接してリゾートビル建設工事の簡易トイレがある。地下浸透式の簡易トイレの汚水槽は底がない。従って、本来、地下に浸透すべき汚水は、岩盤に妨げられて横方向に広がり、10mほど離れたトレンチに流れ込んできた。悪いことに、岩盤は水平方向の割れ目が多く、垂直方向への浸透は難しい。

アラビックのスタッフを呼んで、対応方法を検討したところ、汚水はドーハの市政府にバキュームカーを依頼して汲み上げてもらい処理するらしい。この状況は、下水処理施設に乏しい日本の地方都市では良くあることで、東京の古い家屋でも時々見られる。しかし、どこで処理しているのかは不明。

汚水の処理には、当然費用がかかる。いったい誰が負担するのか?発生源か、それとも湧出先なのか?結局、発生源は、リゾート開発先が簡易トイレの汚水をくみ出し、湧出点はこちらで処理することになった。納得は行かないが、仕方がない。

カタールは、公害問題にかなりうるさいと聞いている。かけ声はいいが、実質が伴わないのは、いずれの発展途上国も同じだ。ただし、他の発展途上国と異なる点は、資金が異常に豊富で、国家財政は、日本と比べものにならないくらい健全だと言うことだ。

カタール最大の工業地域であるラスラファンは、石油・ガス開発の影響で、大気汚染が激しいと聞いている。時間があったら、この公害源に行ってみたい。

ラスラファン見学の予定を立てていた所で、ラスラファン近くの交通渋滞で、夜中に3人の日本人の死亡事故が発生した。ドライバーの居眠り運転らしい。自分の車も運転手の話しでは、JECのエンジニアが3人ほど犠牲になり、1人は即死だったそうだ。この事故のおかげで、ラスラファン行は、残念ながら取りやめた。


フランス旅行雑感(8/15、川上英雄)

 

今年の62日から11日の間、ツアーでフランス旅行に行ってきました(夫婦で)。ツアーは公称10日間ですが、往復の移動がありますので現地の観光旅行は正味1週間です。ニースからスタートしてパリまでフランスを南から北にバスで移動する旅でした。フランスには全部で30の世界遺産がありますが、そのうちの9ヶ所を巡りました。ここに書いたことは旅行記といえるほどのものでもなく、感じたことを思いつくままに綴った感想のログです。旅行の楽しみ方は人それぞれですが、一人のエトランゼとして書き手のバイアスが入った多少の読み物が提供できればと思います。歴史と豊かな文化を誇るヨーロッパの中心的な大国、フランスに旅行したいとかねてから願っていました。まだ、行ったことのない人にはお奨めの出来る旅行地だと思います。ちなみに、現地のガイドの話では、最も多い外国人観光客は日本人とアメリカ人でした。小説や映画の「ダヴィンチコード」のヒットでフランス観光の人気が上昇しているようです。

 

帰国して先ず感じたのは気候の違いです。こちらでは対照的に梅雨に入り、本当に蒸し暑い梅雨の気候が続いていました。63日から10日までのフランス滞在中は湿気の少ない好天気に恵まれました。半そでのシャツでも十分でした。サマータイムのため、午後9時半でも明るいので6月は旅行のベストシーズンです。地中海に面した太陽の輝く南仏のリゾート地(ニース、エズ、モナコ、マルセーユ)はバカンス客ではにぎわっていました。フランス国内はもとより、緯度の高いヨーロッパ中から太陽の恵みを求めてやってくる老若男女は、ひたすら日光浴を楽しんでいる感じでした。

 

幾つもの大聖堂や教会を巡ってこの国がカトリックの国だと実感しました。なかでも世界遺産のモン・サン・ミシェル修道院の景観は最も印象的でした。このツアーでモンサンミシェルに泊まれたのは良かったと思います。モンサンミシェルの入れ口にあって、山にへばりつくように建っている小さなホテルに泊まりました。先祖が、モン・サン・ミシェルで人気のオムレツの創始者で知られる”Pourlard”(プールラール)と言う由緒のある宿で、100年以上前からのマレーシアの元マハティール首相とか、内外の著名人のサイン入りの写真が狭い廊下の壁にあちこちに貼ってありました。夜10時半頃(まだいくらか明るい)、浜辺を数百メートル歩いた所でライトアップされたモンサンミシェルを眺めました。期待通りのすばらしい景観です。ツアーのレストランで出会った他の日本から来たツー客が、モンサンミシェルに泊まれた我がツアーをうらやましがりました。今は、山全体が、修道院になっている感じですが、8世紀の初めに礼拝堂が建てられ、800年間に渡って増改築が繰り返されて16世紀に今の姿になったと言われています。最近見たNHKTV番組で視聴者の人気ベスト30の世界遺産の中でモンサンミシェルは第2位にランクされていました。大聖堂や大寺院の完成に数百年かけるのはざらのようです。神が人の上に君臨し、教会が権力を握った中世やその後に続く絶対王政の時代だからこそできたのだと思います。

ノルマンディー地方のイギリス海峡に注ぐセーヌ河口にはオンフルールと言う美しい古い港町があります。耐用年数が半永久の石造りがあたりまえの国で、そこにあるサント・カトリーヌ教会は異色の木造でした。英仏100年戦争(1337-1453;途中休戦あり)で焼けて教会を15世紀に地元の船大工達が木造で再建したものです。このオンフルールに出かけるツアーは少ないと聞きますが、印象派の画家達によって描かれた絵のように美しい港町と形容されています。ここはたしかに眺めのよい古い港町です。

 

パリ観光は帰国前日の1日でしたが、次々に、眼前に名所が両岸に展開するセーヌ川のクルージングはとてもよかったと思います。例えば、オルセー美術館、ルーヴル美術館、エッフェル塔、コンコルド広場(フランス革命の時に、この広場でルイ16世と王妃マリーアントワネットがギロチンで処刑された)、ノートルダム寺院、自由の女神(アメリカの自由の女神の原型)、アンヴァリッド(14Cにルイ14世が建てた。今は、ナポレオンの棺がある黄金ドームの教会)、コンシェルジュリー(14Cに王宮として建てられた。フランス革命(1789-1799)後、牢獄として使われた。最後の王妃のマリーアントワネット、貴族、学者など2600人が収容され、断頭台に送られた)などなど数え切れない。このクルーズは、居ながらにして、短い時間にパリを代表するモニューメント、ランドマークを見られるので忙しい旅行者にはとても便利な乗り物です。欠点としては、進行している船からの見物なので録音の音声ガイドと眼前の説明対象の建造物が時々ずれることです。初めての観光客には両岸に次々に展開するどの建造物をさして説明しているのかすぐ認識できないこともあります。

午前中は、フランスのカトリックの総本山であるノートルダム寺院とルーヴル美術館を見ました(1時間半の見学時間なのでモナリザ、ミロのヴィーナスとか代表的なものを若干眺めた程度。今は展示の絵画は撮影禁止です。ダヴィンチコードで有名になったモナリザだけは防弾硝子のようなケースに入って厳重なプロテクトでした)、その他、オペラ座近くのパリ三越でのショッピングと自由散策。この界隈には、日本人には懐かしい寿司屋、和食店、ラーメン店などがいろりありました。午後は、パリの南西20Kmにあるベルサイユ宮殿を見学。時の権力者のルイ14世が50年の歳月と莫大な費用をかけて完成したこの宮殿はとてつもなく巨大なものでした。見学時間は3時間ぐらいなので豪華絢爛たる主な部屋を見て回れる程度でした。広大な庭園は宮殿のバルコニーから一望しました。ベルサイユ宮殿の敷地面積は800万平方メートル、部屋数700の宮殿を全部見るには2日はかかるような気がします。パリ観光はツアー会社のプログラム上は1日ですが、ルーアンからパリに着いた夜、添乗員のサービスで地下鉄を使って凱旋門まで連れて行ってもらって解散し、シャンゼリゼ通りをコンコルド広場まで歩きました(地下鉄で二駅分の道のり。ぶらぶら歩いて50分)。凱旋門に着いたのが夜10時ごろだったので閉まっている店は多かったのですが、歩道まで張り出したカフェ・テラスは盛況で、多くの人通りでにぎわっていました。一等地にある立派なトヨタのショールーム(銀座のソニーのショールームのような雰囲気)に立ち寄ったら、未来カーのようなコンセプトの車が展示してあって見物客でにぎわっていました。シャンゼリゼ大通りはブランドショップが並んでいて東京の銀座のような感じですが、歩道と車道の幅ははるかに広い。車道の幅は100mあるので、1回の青信号で中央分離帯まで渡り、次の信号で残り半分を渡りました。しばらく歩いて、立ち並ぶしゃれた高級店街を過ぎると歩道の左手側は並木と100m位の幅の広場が道路に沿ってコンコルド広場まで続いていました。薄暗い広場には食べ物や飲み物を売る屋台を時折見かけ、のどかな感じがしました。このツアーは南フランスなど地方都市をいくつも回るのが主なのでパリは垣間見た程度です。パリをゆっくり見るには最低3日間はかかると思います。朝から晩まで丸1日かけて花の都のパリ観光をしても、東京1日見物と同様で限られたものですが、百聞より一見の価値があったと思います。

 

このツアーで南フランスの画家にゆかりのある街もめぐりました。ニースではシャガール美術館、エックス・アン・プロヴァンスでは100年以上前のセザンヌのアトリエがそのまま残保存されていました。画材に使った人間の頭蓋骨までありました。りんごの静物を描く時、りんごが腐る程まで時間をかけて描き込んだと逸話を聞きました。アルルではゴッホの[アルルの跳ね橋」のモデルとなった跳ね橋を見ました。一つだけ「ヴァン・ゴッホ橋」と名付けて残っています。ゴッホの描いた「夜のカフェテラス」(1888作)のモチーフとなった「カフェ・ラ・ニュイ」(夜のカフェテラス)の店がまったく同じ造りのまま今でも営業しているのには感動しました。行ってはいませんが、南仏のプロバンスには、ピカソがアトリエを構えたピカソ美術館があります。南仏を愛して仕事場にしたこれら巨匠のうち、3人が外国人なのは興味深いですね。シャガール(ユダヤ系ロシア人)、ゴッホ(オランダ人)、ピカソ(スペイン人)。昔から、多くの有名無名の日本人アーティスト達(パリの屋根裏に住んで、ひもじい暮らしをしながら修行する絵描きの卵や画学生を含めて)もフランスに憧れたのは、そこには昔から彼等を引き付ける特別な魅力があったのでしょう。

 

巡ったフランス地方都市は、どこも活気がありました。日本の地方小都市は系列店やフランチャイズ店がはびこっていて特色が無く、地方都市の銀座通りはシャッター街化して衰退傾向ですが、都市国家を起源とするフランスの地方都市はどこも特色があって、昔ながらの専門店が並び、野菜や、魚や食料品をごたごた並べたマーケットがにぎわっていました。日本でも昔はそうでした。旧市街地は2,3百年間も住んでいる建物はざらのようです。車の進入が規制されているので狭い石畳の道は車を気にせず歩けていいですね。陽の当たる店先にテーブルといすを並べたオープンカフェーやテラスレストランで人々がくつろぐ光景をよく目にしました。マグドナルドの店は散見されましたが、日本のようにチェーン店やフランチャイズ店のオンパレードはどこにも見かけませんでした。フランス人は自国の言語、文化遺産、芸術、ファッション、ブランド、料理などに大変な誇りを持っていると感じます。アメリカの主導する市場原理主義やグローバリゼーションに流されない伝統と国民性を感じます。日本のようにマスコミや文化人が、スローフードやスローライフをことさら唱えなくても、この国では習慣として身についているような感じがしました。

 

巡った旅行地;南から北へ;スイスのチューリッヒ空港経由でニース、モナコ(世界で第2の小国、人口35000人のうちモナコ人は6000人、他は外国人、デューク更家もここに住む。カジノ、グランプリ、故グレースケリーで知られる)、エズ(コート・ダジュールの標高420mの岩山に造られた小さな村。城壁に囲まれており、鷹ノ巣村の別称がある。ここの頂上から見下ろす地中海の眺めはすばらしい)、エクス・アン・プロバンス(セザンヌのアトリエなどがある)、マルセイユ、アルル(ゴッホの跳ね橋)、ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水道橋あり)、アヴィニオン、リヨン、ブールジュ、ロワール地方(シュノンソー城やアンポワーズ城がある)、ツール、モン・サン・ミシェル、オンフルール(港町)、ルーアン(ジャンヌダルク教会や19歳のジャンヌダルクが火刑にされた場所がある)、パリ、チューリッヒ経由成田。いろいろな所を回って忙しい旅でしたが、その分、多くのところを見られてよかったと思います。1週間で多くのところを見て回ると、頭の中の時系列や場所の記憶が若干混乱します。短期間に大量の情報がインプットされるためでしょう。そのため、行程詳細は添付のファイルを参照願います(外国の友に送信した関係で一部に英語の補足が入っています。自分のワープロで対応できないフランス語の特殊なルビは省略してあります)

 

フランス語について

この国はホテル以外では英語を必要としていない国だと感じました。パリでは英語がある程度通用すると聞きましたが、地方都市では、英語はほとんど通用しないことが分かりました。英語表記もほとんどありません。最近、パリを旅行した知人の話では、英語で道を聞いたら日本人には英語で対応してくれたが、そのフランス人にアメリカ人が英語で話しかけて訊ねたら一言も英語を話さなかったと言いました。これをどう理解したらよいかは分かりませんが、プライドのあるパリジャンが、相手が母語で有利な英語を嫌ったのかもしれません。言われているように知っていても使わない場合もあるような気がします。

 なぜ、フランス人が英語に無関心なのか、英語を使わないのか、使いたがらないのか、

独断を気にせず自分なりにフランス語第一主義について考えてみました。

フランス語第一主義は、一番目に、英仏100年戦争を戦ったフランス人のプライドであろう。2番目に、英語より、フランス語の方が上等だと認識しているのであろう(日本語を話す韓国人は多いが、日本人はハングルにあまり関心が無いのに似ている)。3番目にフランス人およびフランス政府はフランス語に特別の誇りを持っており、一貫して英語に影響されないようにフランス語を保護してきた(小学校から英語の導入を図ろうとする最近の日本政府や教育界の英語崇拝の傾向とは対照的)。4番目にフランスのような観光大国ではヨーロッパを中心に世界中から観光客がやってくるので、いちいち相手の言語に合わせて表記したり、対応するのは困難であろう。英語も数ある外国語の一つと考えているのだろう。5番目に、ヨーロッパの社交界ではフランス語が使われてきた。どなたか、この方面の知見がありましたらご教示頂ければと思います。

英語が通じないと聞いていたので、旅行前の二月ばかり、即席でごく簡単なフランス語を独習しました。音声教材の利用が役立つと思います。

数の数え方や挨拶など若干のフランス語でも知っているととてもよいと思いました。基本的に60迄の数え方しかないフランス語のカウントは英語に比較すると複雑で覚えて使うのはかなり厄介です(例えば706010と表現し、924,20,12と表現するため)。リエゾンなどで頻繁に単語をつなげて発音する特徴があるために聞くことと話すことが英語に比べてかなり難しい言語だと感じました。東京都知事がフランス語の数え方はおかしいと発言して、フランスのひんしゅくを買いましたが、いくらフランスのカウントのシステムが非合理的であってもその国の文化なので尊重しなければなりません。フランス人は複雑な数え方をするので買いものの会計を間違えることがあるので注意が必要と現地の日本人ガイドからアドバイスがありました。私も、売り上げの合計を間違えられてクレームをつけて訂正させました。なんであんな面倒な数え方をするのかなと思います。

27人のツアーのメンバー(大半は60代)で多少ともフランス語が話せたのはごくわずかでした。例えば、ツアー仲間に英語の達者なシニヤがいたのですが、その男がマルセーユの昼食のレストランで"red wine"と繰り返し言って注文してもウエイターに分かってもらえず困っていたので、"du vin rouge(デュ ヴァン ルージュ;red wine, s’il vous plait(シル プレ;please)と助けてやったらすぐ分かりました。これは極端な事例かもしれませんが、笑えぬシリアスな実話です。その後、彼は23回英語を使って通じないので英語を使うのをギブアップしたようです。こう書いたからと言って添乗員がいるのでツアーに支障をきたすわけではありません。コミュニケーションの基本は言語なのでまったく出来ないよりは、少しでも知っている方がよいと思います。団体ツアーであっても、現地の言葉を少し知っていた方が、行動の自由度が増し、旅行の楽しみが増えるように思います。旅行先の言語に興味があるせいか、話が長くなりましたが、所詮は、物好きのすることかなと理解しています。

 

観光客の対象となる旧市街地では、高い建物は無く、せいぜい4階建て位の石造りの建物が長屋のように1ブロックの長さで続いているのをよく見かけました。この方式だと、建築コストとスペース効率の点で有利に思います。中世の頃、都市を囲む城壁内の土地利用のスペース効率をよくするためかなと感じました。

パリでも、地方都市でも、電信柱や空中を走る電線やケーブル、高架道路を見かけませんでした。駐車場が無いのか少ないためか、有料の路駐があたりまえの現象でした。ガイドの話によると、ダウンタウンでは路駐に便利な小さい車の利用が大半で、車はブレーキをかけずにバンパーが隣の車に接触するぐらいまで間を詰めてパーキングするのが普通だと聞きました。どのようにして発車するのか不思議に思いました。パンバーはぶつかってもいいように設けたパーツなので前後の車をパンパーで押してスペースを作り、発車するとの話を聞いてなるほどと思いました。サイドブレーキをかけたまま駐車すると車のダメージははるかに大きくなるとの理屈でした。パンパーのわずかな傷でも神経過敏になる日本では考えられないことですが、国民性を反映した車社会の合理的な知恵だと思います。

 

日本の都市の町並みでは、現在の形や近い将来の姿を見るのになれていますが、数世紀も前からの過去との連続性の中で人が暮らしているとの実感がありません。日本なら、明治の頃と現在では大半の街がまったく違った景観になっています。昔の姿を見たければ、古いものを博物館のように集めた典型の明治村になります。フランスで人工物である石造りの歴史的建造物を数々巡り、地方都市で人々が数百年前からの同じ家に暮らしている様子を見てこの国では、中世や、数百年前の過去と現在が連続していると言うか、一体とな

っている姿を見ました。その住民達は過去を共有して現在を生きているのでしょう。歴史保存地域では100年後に同じ街角に立って記念写真を写しても今と同じ光景だとガイドから聞きました。観光大国フランスでは、歴史的建造物や古い町並みを守るための規制を受け入れて生活の不便さを我慢する国民的コンセンサスがあるのだと思います。我慢ではなく、積極的に文化遺産を守ることに価値を認め、誇りを持っていると考える方が適当でしょう。そのことが結果として豊富な過去の観光資源の保護につながり、パリを初めとして、独自の特徴と雰囲気を備えた各地方都市が、自然と世界中から観光客が集まってくる魅力の源泉になっていると強く感じました。

 

その他の雑感;若干の知見と感想をまじえたメモランダムを思いつくままに羅列します。

 

ニースの入国審査で列を作って順番を待っていた時、担当の係官が何も告げずに突然去って行きました。10分待ってもその男は現れず、待っていた皆は唖然としたが、隣の列に並んでいた人の好意で隣の列に割り込ませてもらいました。また、夜10時ごろ、凱旋門まで行くために、ツアーのメンバーが各自で地下鉄の駅で切符を買おうとしたら、営業時間中なのに出札口の窓口事務所には誰もおらず、自動発券機しか使えないため、適当な小銭を持たない人は右往左往しました。けっきょく、添乗員やツアー仲間に借りて何とかその場をしのぎました。日本では、考えられないことだけど、よくあることなのでしょう。この国では、自分の勤務時間が終了すれば、客がいようが職場を去るのは当然のことなのでしょう。

 

各地で大聖堂、教会、寺院を見ましたが、中には、首から上が無い人物の石像や塑像が並んでいました。壁画がはがされたのもありました。18世紀のフラン革命の時に破壊されたようです。革命のすさまじさを物語っています。

 

大聖堂の中を見物している時に、賛美歌の透き通るような、美しい声のハーモニーが流れてきてしばらく立ち止まって聞いたり、そびえ立つ大鐘楼から時を告げる鐘の音が聞こえたりすると気持ちが安らぎ、異国にいることを感じます。

 

南仏のプロバンス地方では、エクス・アン・プロバンス、マルセイユ、アルル、ポン・デュ・ガル、アヴィニヨンに行きました。プロバンス(イタリヤ語のプロヴィンチアprovincia(ローマの属州)に由来)地方は紀元前2世紀から5世紀末までローマ帝国の支配下にあったため、いろいろとローマ時代の遺物(円形闘技場、古代劇場、水道橋など)が残っていました。

 

マルセイユのシンボルであるノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院はマルセイユの町を展望できる小高い丘の上にあります。鐘楼の上に立つ黄金のマリア像は港に出入りする船乗りの守護神です。マルセイユ港に沿ってその寺院に向かう途中、港の出口付近でバスは停車し、マルセイユ港の沖に位置するイフ島(Ile d'If )(またの名をイフ城(Chateau d'If )を眺めました。この島はアルクサンドル・デュマの「岩窟王」でモンテクリスト伯がこの牢獄に入れられたことで有名とのこと。この島はフランソワ1世によって1524年に要塞化が進められ、16世紀末に完成。1634年に国の牢獄となり、王族など多くの有名人が収容されたと記されています。いまは、観光地で遊覧船が島に向かっていました。

 

マルセイユやオンフルール(オンフルール)の美しい港町を見て感じたのですが、歴史のある古い旧港(Vieux(Old) Port)を観光地の目玉として保存し、貨物船や漁船用に実用目的の新港を外港として別に設けています。この新港はどこにでもあるような平凡な港です。

 

フランスは日本の面積は約1.5倍で、人口は約半分なのでバスで巡っていると郊外はゆったりした国だと感じます。山が少なく、全体がフラットな土地で小麦畑やブドウ畑が延々と広がっている田園風景を見ているとフランスがヨーロッパの農業国であることがよく分かります。

 

どこに行っても、プラタナスの街路樹が目立ちました。強い光に映えて新緑が美しい季節でした。フランスでもっともポピュラーな木だと感じました。

 

エクス・アン・プロヴァンスのプラタナスの並木が美しいミラボー通りを自由散策していた時に、1792年創業の「デゥー ギャルソン」(二人の息子)のカフェーがあって立ち止まって眺めました。団体ツアー旅行なので中に入る時間が無く残念。昔、サルトル、コクトー、ピカソ、チャーチルなども訪れたとガイドブックに紹介されている有名なカフェーです。

 

料理は3食ついているのでバイキングの朝食以外は選択の余地はほとんどありませんが、魚のムニエル、エスカルゴ、ムール貝、兎の肉のソテー、ブイヤベースなど郷土料理も色々と食べました。私は弱いのですが、アルコールの強い人には結構いろんなワインをたっぷり飲めてよかったと思います(有料)。パンもいろいろとありうまかったですね。どこに行っても魚はいつも味の淡白な白身の魚のムニエルが定番で変わり映えせず、ツアー客の評判はよくなかったようです。魚の種類の豊富な日本では考えられないことですが。

 

69(最終観光日、添乗員の計らいでパリのレストランの夕食中、突然、バースデーと一組参加した新婚のカップルを祝福するための簡単なセレモニーがありました。私一人だけが1日繰り上げてバースプレゼントを頂きました。パリ三越の洒落たフォトフレームです。架台にパリの名所の図柄が入っていました。(東京に住む娘から聞いて後日分かったのですが、このセレモニーの背景には、旅行の手続きを任せてあった娘のアレンジと添乗員の好意の裏話があったようです。従って一般的なことではないのでしょう)

 

バス旅行のシートベルトについて

フランスでは、近年法律が改正されてバス旅行者のシート着用義務が施行されています。バスに乗ると常にガイドや添乗員がシートベルトの着用をするように時々注意しています。たまに、検問があるようで違反者は見つかるとかなりの罰則金を取られるとの事でした。日本には無い習慣なのでわずらわしいと思っても、みんなルールに従っていました。

 

ロングフライトは睡眠導入剤を持っていくと便利だと聞いたので、医者に無理を言って出したもらい、使ってみましたが、効き目の弱いものだったのか、服用量が少ないのかあまり効果がありませんでした。ドラッグなんかに頼らない方が賢明ですね。

 

団体ツアーの効用;これほどの観光スポットを個人で回ろうしたら、2、3倍の期間とコストがかかると思います。 自分で見物時間をコントロールできない短所はありますが、知己もいない見知らぬ土地は効率のよい団体ツアーで満足すべきと考えています。

 

 比較的最近出版された岸恵子著作の「私のパリ 私のフランス」でも引用されており、荻原朔太郎が大正期の詩の中で、"フランスへ行きたしと思へど、フランスはあまりに遠し...”と憧れた事が知られていますが、昭和の初期までは40日余りの船旅で、フランスへ旅行できる日本人は希有だったと思います。トップスターの岸恵子さんが’50年代に24歳で単身パリに嫁入りした時は、プロペラ機で50時間かかったと記されています。

今では、9000km離れたフランスへ10数時間で行けますが、今の日本人でも、いろいろな条件がそろわないと遠い海外旅行はできないので容易なことではないように思います。その条件の中でも、行きたいと思う強い意欲が原動力になるような気がします。いずれ、年相応に健康/体力が遠出の限界を決めるでしょう。旅行してみて、日本人にとってヨーロッパではフランスがイタリアにつぐ人気の観光地であることが分かったように思います。

(完)                         川上英雄、20068月(記)


カタール便り7(迷い犬)

7th July 2006

技術士(建設部門)

福島晴夫

暑中お見舞い申し上げます。日本は天候不順でなかなか夏がこないようですが、ここカタールでは、毎日40℃以上の気温で熱風が吹いており、まるで溶鉱炉の近くで仕事をしているような感じです。

最近、これといったトピックがなかったのでカタール便りをさぼっていましたが、今回は迷い犬の情報をお伝えします。3週間ほど前から、1匹の迷い犬が当方の現場事務所に住み着いています。推定年齢4〜5歳のゴールデンリトリバーの雄で、よく訓練されており、トイレは必ず外でします(当たり前?)。シャワーは大好きなようで、水をかけても逃げだそうとしません。

 理解できる言葉は、英語のようです。日本で買ったら少なくとも30万円以上と思います。現在、新しい飼い主を捜しています。

 カタールの夏の気温は、人間にとってかなり厳しく、現場でエンジニア連中と2時間ほど議論していたら、頭がくらくらして熱射病になりそうになりました。慌ててクーラーの下に逃げ込みましたが、それでも暑くて1時間ぐらい仕事になりません。犬のように、皮膚で体温調節ができない動物にとって、高温の外気の中で暮らすことは、非常に厳しい状況でしょう。

 犬好きの私としては、とても見ていられないので、日中は事務所内に入れています。しかし、夕方には御退室願うので、その後はどうしているのか解りません。特に、休日の金曜日は、誰もいなくなるので水を求めてさまよっているのではないかと心配です?

 あまりに可哀想なので、宿舎で飼うことをもくろんだが失敗しました。宿舎は、通常、インド人のコックとハウスボーイがいるのでなんとか面倒を見てもらえないかと相談してみたところ、彼らは、深刻な顔をしてかなり考え込んだあげく、答えはノーでした。理由を聞いてみたところ、誠に不思議な回答が帰ってきました。

 イスラム教では、一回でも犬にさわったら、七回手を洗わなければならない戒律があるようです。敬虔なイスラム教徒は、これを守っています。宗教なのでとやかく言えませんが、誠に不思議な戒律です。

イスラム教は、中東地域で発達した宗教で、中央アジアから遊牧民が蒙古に追われて流入しており、羊の遊牧が生計の主体であったと思います。この地域は、800年代からオスマントルコの前身であるセルジェック帝に支配され、その後はオスマントルコの支配下になっています。トルコでは、至る所で養羊犬がいます。イスラム地域にとって、犬は欠くことのできない同胞のはずですが、全く理解できません。

 とにかく、この犬の新しい飼い主を捜しています。カタール便りに書いてもあまり意味がないかもしれませんが、誰か、カタール便りを見て飼っても良いという方がいたら、連絡してください。連絡方法は、技術士協同組合(http://www.cea.jp/)HPでリンクを探せばみつかります。よろしくお願いします。

僕の飼い主を捜して!!!!!


「シニア・マーケッティング」
最近我々の仲間内で、技術士のマーケッティングについて議論が始まっている、私はとてもいい傾向だと思っている。
ネットでシニアとマーケッティングに関する面白い論考があったので紹介する、
貼り付けー
      シニアとは、何歳以上の人のことを言うのだろうか。自分が20歳のときには、50歳あたりより上の人を、みんな十羽ひとからげで「じじ」「ばば」と思っていた。しかし、この歳になると、改めてその多様性に気づく。50代、60代、70代で次々と起こる、自分の内部及び外部の環境の変化の激しさは、10代、20代、30代に匹敵するほどではないだろうか。

      まず、50代、60代というのは、ヨボヨボではなくて、元気な人が多い。友人からも色んな話を聞く。
      ・(僕と同年代の女性)久しぶりにフィットネスに行くと、50歳以上の男女が大半なので驚いた。50代の男性が音楽に合わせ元気に鏡の前でフィットネス体操をしているのには、圧倒される。
      ・(20代の男性)両親は、50代だけど元気です。二人でフルマラソン走るんですよ。それも完走目的というよりも、タイムを気にしています。
      ・ゴルフ場に行くと、60代、70代の人で一杯。また、この人たちがとびきり上手。


      昔と違って、今の50代は、若いときにスキーやテニスをしてきた世代でスポーツに抵抗感がない。余暇にスポーツを熱心にやっている人なら、家でゲームばかりしている若者より体力もある。この元気な50代を70代と同じに扱うのは無理がある。介護だって、する方と、される方で大違いだ。

      言い換えると、50代から70代のこの時期に、30代、40代と大差ない体力から、70代後半の老人の体力まで、10年毎に体力が激変して低下していく。それは、10代から、20代、30代と変わっていく身体能力の変化と同じくらい急激な変化だろう。

      さらに、職業面、金銭面でも大きな変化がある。職業も、20代から50代まで一つの会社に勤めていた人が、50代に転職を複数回経験することも多いだろう。更に、60代には、大半が仕事をしなくなる。金銭的にも、50代、60代は、収入、支出、蓄えを総合すれば、おそらく人生で一番余裕のある時期を味わうが、70代の収入は、非常に少ないものだろう。

      まとめてみるとこのようになる。
      ・50代:仕事あり。体も健康。介護されるよりも、親を介護する立場としての悩みがではじめる。子供にお金がかからなくなり、金銭的には、人生で一番裕福。転職を経験。
      ・60代:仕事なしの人が増える。体は、健康。少なくともヨボヨボではない。スポーツ、地域活動、趣味などの時間が多い。介護を受ける準備を始める。
      ・70代:仕事無し。体も弱くなる。後半には、一部介護を受け始める。

      このように、ざっと考えただけで、今の日本社会では、50代、60代、70代で、それぞれ内部、外部環境が劇的に異なってくる。仕事も、同居する家族構成も、日ごろ付き合う友人も変わる。広告業界では、50歳以上は、すべてM3層とF3層に分類されるが、50歳の人と、65歳の人と80歳の人が同じグループなんて信じられない。65歳以上をM4、F4と呼ぶ必要があるのではないだろうか。なんといっても、彼らが、これからの消費の主役なのだ。

      そして、これだけニーズがあるにもかかわらず、企業は、50代と60代と70代の多様性を意識したマーケティングがちゃんとできていないのではないだろうか。この層の各世代のニーズにぴったりあった商品情報、サービス情報があまりに少ないと思う。そのうち、60歳くらいの元気な大先輩が、パワーポイントを使って、シニアマーケットのなんたるかを、若輩マーケッターにまくしたてて、講義するような時代がくるかもしれない。


貼り付け終わりー
技術士も独立・自営に限定して言えば、年齢によって自ずからマーケッティング・市場開拓のやり方が異なってくる、専門性という縦座標が看板になるのは当然と言えるが、顧客との関係が深まるにつれて、主として経営に関わる色んな分野の横軸に提案やアドバイスができるようになって一人前の技術コンサルタントと言える。

森田裕之 Yuji Morita(6/8)


カタール便り 6 (工程)

技術士建設部門

福島晴夫

43日の夜に突然の雷を伴う豪雨。翌朝、現場の状況調査に早起きして現場を調査すると、掘削中のトレンチが水浸し、まるで運河。またリスク管理の欠如か?カタールでは、排水ポンプを常備している建設業者は少ない。慌てて水中ポンプの手配をしたが、泥縄だった。おかげで工程は、確実に1週間ほど遅れる。

カタールでつくづく思うことだが、工事の工程は、ことごとく発注者に無視される。こちらが工期内に終了する工程を提出しても、「とにかく早く仕上げろ」と毎日プレッシャーをかけてくる。プロジェクトは、電気が主体を占めているので、電気部門の都合で工期は常に変動する。更にやっかいなことは、最終設計が確立しておらず設計変更を余儀なくされることである。従って、毎日の工程管理と修正が、工期内に完工するための最重要課題になる。

私の管轄しているエンジニアは、インド人とスーダン人で、役所の交渉はアラビア語が母国語のスーダン人、実質的な現場指導は、インド人が担当している。しかし、彼らは工程を考えることが不得手である。この理由は未だにわからない。工事の全体工程表に興味を示さず、日々の細かい作業の調整をしている。工程なくして工事予算運営や出来高評価ができるはずがない。能力や経験不足とは思わないが、時間感覚のない理由は日本人に理解できない。もちろんカタール人も同様で、工程を無視し、まるでマジックのように、工事着手すれば、すぐに完工することがこの国の感覚のようだ。非常にわがままで、何でもカタール人の思い通りになると錯覚している。

様々な本に書かれていることだが、工程に無頓着な原因を「狩猟民族」と「農耕民族」の違いと考えると納得できる。中国の北と南の文化に関する本、「龍の文明・太陽の文明」(安田嘉憲、PHP新書)は、狩猟民族と農耕民族の違いについて参考になることを述べている。

中国は、北の畑作・牧畜文化、南の稲作・漁労文化と言われるように、南北で大きな違いがある。長江以南の湿潤地帯は、北の乾燥地帯からの侵略者がなかなか踏み込めなかった。季節の変化と太陽の恵みに依存し、適切な時期に必要な農作業をする文明。春が来たら種まき、夏は草取り、秋の収穫、冬は貯蔵のように計画性のある文明は、農耕民族に共通する文化である。獲物の豊富な時に腹一杯食べ、不猟の時にはじっと我慢して獲物が現れる時期を待つ生活は、狩猟民族の文化で、この文化に計画性はない。

中国の歴史は、北方の狩猟民族が南進できなかった理由として、気候風土になじめなかったこともあるが、文化の違いが大きいことを示唆しているように感じる。ベトナム戦争でアメリカが勝利できなかった理由も共通するのでは?

カタール人の起源は明確ではない。カタールを含むアラビア半島は、西暦800年代からオズマントルコの前身、ジンギスカンの影響を受けたのセルジェック帝の支配下にあった。さらに、西暦1,000年からオズマントルコが消滅する約800年の間、牧畜で生計を立てる狩猟民族に支配されていたと考えられる。最も、一面が土漠の不毛地帯に興味を抱いたものはいなかっただろう。

カタールの人口構成は、以前に述べたように、エジプト、シリア、ヨルダンなどの所謂Arabic Countryとインド(一部)、パキスタンなどのイスラム圏、イスラム圏以外の外国人である。Arabic Countryは、古代文明の発祥の地で、支配・被支配の長い歴史があり、一般の外国人に理解できるものではないが、いつの時代からか計画性を忘れてしまったのではないか。エジプト人は、ピラミッドに代表される高度文明があったことを誇りにして異常にプライドが高いが、計画性のなさには感心する。

インド人は、なぜ工程を理解できないのだろう。この疑問に答えるためには知識不足である。私がコンサルタントをしたインド・ナスパジャキリ発電所工事では、工程の重要性を発注者が理解していた。発注者の主体は、インドの電力省の役人で、先進国並みの高度教育を受けたエンジニア集団だ。彼らの知識レベルは、十分に納得できるものだった。言い過ぎかもしれないが、カタールのような辺境の地に出稼ぎに来ているインド人は、カーストの中位以下で、教育レベルも相当のものではないのか?

カタールは、天然ガスバブルで多くの日本企業が進出し、プラント建設やインフラ整備に取り組んでいる。日本企業は、工程を基本として工事を進めるが、工程のない国、工程を無視する国に対応できる解決策を模索する必要がある。


カタール便り 5
25 February 2006
技術士建設部門
福島晴夫
2月22日の夜半に、突然の雷鳴とともに雨が降り出した。事前の情報によると、冬?の終わりに豪雨が降り、その後、暑くなると言うことだった。しかし、この国の土木工事で雨は予測していなかったので、現場の状況がかなり気になった。危機管理に雨を考慮していなかったのは、私の落ち度だろう。幸いなことに、被害はなかったけれど。
朝、日本から来た大学時代の友人と朝食をともにした。石油業界に勤める彼は、中東の石油買い付けに来たとのことだった。以前に述べたように、カタールは、天然ガスの生産で世界一にのし上がろうとしている。GDPは、この国で働いているアラビック、インド、パキスタン、その他の人口を加味しても、世界第2位になると言う話を商社の駐在員から聞かされた。日本のような借金国家と異なり、無借金国家の代表格である。資源の豊富な国はうらやましい。
国家予算の使い道が無いため、国を挙げて、現状で世界最高のレベルの商品を追求しているように感じられる。装飾品は、エルメス、ビュトン、その他の有名ブランド、車は、日本で見たことのないポルシェの4WD、ベンツのS Classなど、驚くほどの高級品を志向している。イスラムの黒いベールの下は、金銀・宝石の装飾品や、エルメス、ビュトンなどのブランド商品で着飾っている。ベールを脱げばいいのにと思うが、全くもったいない話だ。
この一端か、一般商品ばかりでなく、建設工事にも同様の傾向が認められる。構造物の鉄筋量一つを取ってみても、異常と思えるほど多くの鉄筋を使い全く無頓着である。日本でいい加減な耐震設計が国会で取り上げられている状況とは大違いだ。世界最高レベルを追求するもの結構だが、技術教育面でも世界水準を考えていただきたい。
先端技術の内容を理解できるだけの高等教育を受けた技術者は非常に少ない。高等教育を受けた技術者は、政府管理部門の上層部におり、おそらく各国の文献などから着目された先端技術を見つけ出し、管轄下の事業に適用しているのではないだろうか?
現場を直接管理しているエジプト人やインド人の技術者は、所詮出稼ぎ技術者で、教育レベルは低く、コストダウンを目的とした日本の高度技術を理解できなくて当然だろう。全くばかげた話だ。日本は、カタールとの友好活動として、教育に力を入れている。この方針に大きな誤りはないだろう。とにかく、エネルギー資源は、日本の生命線であることは確実なのだから。
カタールも、国際化に努力している。前回紹介した男子テニスのトーナメントに加え、2月27日から女子のテニストーナメントが開催される。また、1月末には、サッカーU19の国際試合がドーハで開催され、辛くも日本が優勝した。経済界では、2月の初旬にカタール経済相、カタール商務相などが出席した日本-カタール友好経済会議が、日本大使館の主催で開かれている。
カタールが、日本のバブル期に匹敵する商機であることは間違えない。。日本から商社、自動車会社、石油・ガスプラント会社などの大企業を始め、¥100Shopにダイソウも進出してきた。おかげで、インフレ率が急上昇し、好立地の事務所賃借料金は、1年間で2倍になっている。アパートも値上がりし、物価上昇がひしひしと感じられる。
ここしばらくは、カタールの経済発展状況に着目し、商機を逃さず進出を試みることもおもしろいかもしれない。ただし、あくまでイスラムの戒律に縛られた国であることを忘れないことだ。


ニュ−ジ−ランド便り(1)

三宅 劭です。

今年も10日程前からクライストチャーチ(NZ)に来て、例年と同じホテルの同じ部屋に滞在しています。未知との出会いは旅の愉しみの一つですが、支配人以下主なスタッフも顔なじみなので、そのような愉しみはありません。

出発前のYahoo Japanの中期天気予報(提供はJWN)では、今年のNZは冷夏の予報(本日現在も間違った情報が表示されています)でしたが、到着以来毎日快適な天候(最高23-28℃、最低14-15℃、湿度50-60%)です。

Garden Cityと呼ばれるクライストチャーチの最も重要な年中行事は、毎年2月中旬に行われる花祭り(Festival of Flowers Garden City )で、数年前までは開催時期の10日位から街の中心部は綺麗な花の飾りつけで、間もなく花祭りが始まるという期待感がありましたが、国の経済状況は悪くないのに、数年前に市長が変わってから、花祭りの予算を大幅に削減して、低調になり観光客をがっかりさせています。

1990年頃から日本からの観光客は増え続けていましたが、NZjが強く2000年頃の1NZj50円から昨秋は85円もの円安になり、この2年はかなり減っているようです。

目立つのは好調な経済成長を続けている中国本土からの大勢の団体客で、昔の農協団体のようなマナーの悪い団体が大声で話しながら歩き廻っています。
街で目につくのは韓国勢の進出で、商店街の20-30%は韓国人の経営になっているようです。

間もなく夏の終わりを告げる無料の野外クラシックコンサートが、市の中心部の広大な(日比谷公園の20倍位?)ハグレー公園で行われ、娯楽の少ない町なので、 数万人の市民が折り畳み椅子・ピクニックバスケットを持って参加します。

宿泊するホテルから徒歩5-6分なので毎年見に行きますが、昨年は7-8時間前にホテルで借りた折り畳み椅子に目立つ印をつけ最前列の席を確保しました。
驚いたのはスポンサー企業約10社が儲けた200-300位のVIP席に招待されていた韓国人が30-40人はいたことです。

後日事務局に聞いたところ、クライストチャーチ(人口約35万人)に住む韓国人(約4000人)ニュ−ジ−ランドを代表する大企業の主要取引先企業の役員や大株主が かなりいるとのことでした。

日本人の長期居住者も2000人前後いますが、そのようなVIPは皆無です。
大橋巨泉経営のOKギフトショップ(1号店)がまだ存続していますが、最近出来た韓国人経営の店のほうが立派です。

昨年も書きましたが、当地にあるNZ第2のUniversity of Canterburyの各学部の成績上位は殆ど韓国人です。これは日本人は2流大学にも入れない落ちこぼれが多いのに、韓国人はソウル大学に入れるような秀才が沢山来ているためです。

当地で見る限り韓国が優勢ですが、乗用車・パソコン・デジカメなどはまだ圧倒的に日本製品が好評です。

三宅 劭
(2/25)


カタール便り 4

カタールオープンテニストーナメント

技術士(建設部門)

福島晴夫

 

 日本大使館の新年会に出席した際、カタール大使が、対カタールへの文化交流を盛んに推進したいと述べられていました。カタールは、情操教育が遅れているので、カタールの管理職クラスを日本に研修派遣する計画や日本の文化を積極的に紹介することなどの具体的な企画を語っておられました。

 カタールは、世界最大の天然ガス産出国になる予定ですが、文化の面ではまだまだ立ち後れており、この国のエネルギー資源が枯渇し世界から見捨てられないうちに、国家的なプロジェクトで国際的な地位を確保しようとしています。日本もエネルギー資源安定確保のために、カタールとの交流は重要事項でしょう。

カタール国際化政策の一つでしょうか?カタールは、2006年末のアジア大会に向けて、スポーツイベントを積極的に開催する方針のようです。カタールオープンテニストーナメントは、昨年スタートし、新年の13日から7日まで、ここドーハの地で第2回トーナメントがありました。

トーナメントは、私が駐在仲間とテニスを楽しんでいるクラブを使用しました。招待選手は、ウインブルドンの優勝者でATPランキング1位のFeedererをはじめ、世界のランキング上位のプレーヤーです。テニスに興味を持っている方ならばわかると思いますが、彼らの試合を日本で見ることは大変難しく、また、入場料も高額であると思います。

トーナメントは、準決勝と決勝を楽しみました。入場料は無料で、ほとんどコートサイドの最高の場所を確保することができました。優勝者は、予想通りFeedererで、優勝賞金US$ 146000-と黄金の剣や盾を獲得しました。わずか数日で、このような高額を稼ぐのはうらやましい次第です。

さすがに、世界のトップの試合は迫力があり、テニス仲間がみんな刺激され、次回のテニス練習では、是非まねをしようと言っていましたが、50代のテニス同好の士がまねをすると、確実に体をこわすでしょう。

1月中にカタールオープンゴルフトーナメントも開催される予定で、なんと、タイガーウッズの招聘を企画していますが、彼が来るかどうかはわかりません。(私は、あまりゴルフに興味ありませんのであしからず。)

ドーハは、昨年1227日に砂嵐のような強風が吹いて以来、かなり涼しく長袖がほしくなることもあります。日中の気温は、28℃以下で、朝晩は20度以下まで下がり、大変過ごしやすくなっていますが、1月末からまた夏?が戻って来る予定です。

今月末には、ゴルフトーナメントがあり、タイガーウッズが来るならば、一度見学に行こうと思っています。ゴルフファンの方は、次回のカタール便りをお楽しみに。


Feedererのスマッシュ

優勝者Feedererへの賞品授与


カタール便り その3 (愚者と金)   
16/Dec/2005
建設部門 福島晴夫
 これまでビザ書き換えのためにアラブ首長国連邦のアブダビとドバイに行ってきました。カタールのドーハに比べると、これらの町は、かなりの発展を遂げています。特に、ドバイは、中東の香港のようで、他民族でごった返しており、カタールに比べて格段民主的な雰囲気です。これは、故ザイード大統領の経済政策が成功し、中東における石油市場の中心になったということだそうです。聞くところによると、ドバイは石油をほとんど生産していないようですが、商業中心としての地位を確立しているます。
ドバイを含むアラブ首長国連邦は、1971年にイギリスから独立し、現在の発展を成し遂げています。過去に、オスマントルコの支配された経緯がありますが、トルコの文化的な影響を受けているような感じはしません。おそらく、その後、この国に出稼ぎに来てたアラブ人やインド人、フィリピン人などの文化が混在して、アラブ色を目立たなくしているのではないかと思います。
 ドバイの町を歩いてみましたが、東南アジアにあるような路地裏に小さな店が軒を連ねています。スークというところで、金や工業用品、衣料品、電気製品、その他の商品を販売している店が建ち並び、さながらトルコのパザールの様相を呈し、商業が盛んであることがうかがわれます。
 カタールもドバイと同様に1971年にイギリスから独立しています。しかし、政治・経済は、カタール人に独占されており、ドバイのような民主政策は見られません。カタール人は、将来のことを考えて、観光誘致に積極的ですが、金だけでIntelligenceのかけらもない連中には、ドバイのような発展を望むことは難しいように思われます。最も、独立してから35年経たない歴史では、高等教育を受けた若者を期待することは難しいでしょう。
他国からの出稼ぎ労働者が、カタールの政府に雇用されていますが、教育レベルが低く、ことある毎に責任を回避することばかり考えています(日本も同じ?)。これらの出稼ぎ労働書は、本国で政治・経済トライアングルの下層にいた連中でしょう。教育レベルは低いが、やたらと権力を振り回すのでなかなか付き合いにくい連中です。過去の歴史から、この様な連中は、奴隷の民族であったことは明らかです。奴隷の習性は、なかなか治らないものです。
 カタール人は、能力にかかわらず、自動的に国から家や車が支給され、働かなくても暮らしていける状況のようです。金を使う場所がないこともあり、車関連の遊びに夢中になっています。今の時期は、かなり過ごしやすくなっているので、夕方4時頃になると、砂漠でサンドバギーのレースに興じているカタール人を見かけます。この連中は、工事用車両のミラーや安全柵を壊したり、安全灯を盗んだり、全くろくなことをしません。しかし、カタール人には文句を言うことができず、泣き寝入りの状況です。全く、大金を持っている愚者は手がつけられません。


カタール便り  その2

建設部門  福島晴夫

103日にやっとラマダンがあけました。同じイスラム国であるトルコの時には余り感じませんでしたが、ラマダンは、イスラム信徒にとって重要な行事です。ラマダンが終了すればお祭りになります。日本の正月と同じでしょう。ラマダン明けには、子供達が夜遅くまで遊んでいます。普段は、この様な光景を見ることができないので、ほほえましく感じます

不思議なことに、外国人の子供が遊んでいる光景は見ません。遊んでいる子供達(といっても私の居住区域の周辺ですが)は、ほとんど豪邸に住んでいるカタール人だと思います。夜中に花火を焚いて大きな音を立てているのは、昔の日本の子供達と余り変わらないでしょう。

カタールの人口は60万人〜80万人ですが、カタール人はわずか20万人で、この人達が政治の中枢を占めています。当然のことながら、大学を卒業した経験の少ない若者が、政府機関や企業の中枢に着いています。実務は、これらの機関・企業に就職した中東圏の各国(アラビア語圏)からの就職者が遂行しているようです。インドやパキスタン人もいますが、基本はムスリムだと思います。

海外からの就職組は、カタール人に気に入られることが安定した職を維持するための必要条件であり、自らの地位と業務の範囲と権限を保持するために、バリアを設けていますが、日本やトルコのような縦割り社会ではありません。絶対権力を持って国を統治しているカタール人が、縦割り社会のルールを簡単に壊してしまうからでしょう。この状況は、停滞した保守政治を革新するために、小泉首相が名目上チャレンジしていることと似ており、日本のように官僚統治が進んで動きがとれなくなった国にはある意味で好ましいことだと思います。これが首長国の長所かもしれませんが、戦前のような国家元首による専制国家を拒絶することが日本人として当然でしょう。

あるプロジェクトでは、顧客が工事遂行に不適切として拒否した施工業者が、わずか2日で復帰してきたという噂があります。有力なカタール人のエージェントが後ろ盾だったので当然のことですが、賄賂の常識となっている中国でもこの様な芸当は難しいと思います。

仕事の話しで申し訳ありませんが、工事の発注者は、契約書に対して細かく気を遣っています。契約書に記載されている内容に関する発注側の責任をできるだけ回避し、施工業者に転嫁しようとする傾向が見られます。契約書に明示されている調査事項等に対して、発注者にInspectionを依頼しても、Inspectionなしで進めて良いという返答がしばしば帰ってきます。これは、受注サイドから見ると非常に危険なことでなので、関連書類を提出しますが、受け取ってもらえません。

カタールの公的機関や企業は、工事契約に関するクレームでかなり痛い目にあってきたのではないでしょうか。これまでの経験から、発注者がEUUSAのような契約社会の慣習を理解していると言うことでしょう。この点は、トルコのように自分の都合の良いように、契約書に違反して解釈をねじ曲げる泥棒みたいな連中よりは信用できます。


ジョブズの卒業祝賀スピーチ(17/10/22)
2005年6月12日、スタンフォード大学
原文URL:
http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404 

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。
実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。
それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。
 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。
じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。
育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。
ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。
で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。
彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。
そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。
               ◆◇◆
 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。
やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。
そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。
自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。
なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だか
ら退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。
 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。
だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。
 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。
日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。
 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。
               ◆◇◆
 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。
キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。
私は退学した身。
もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。
それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。
 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。
で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。
 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。
だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。
もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。
だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。
点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。
結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。
               ◆◇◆
 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。
実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。
がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。
そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。
アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。
そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。
いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。
しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。
数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。
自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。
このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。
知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。
 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。
私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。
振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。
 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。
成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。
そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。
 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。
NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。
ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。
そりゃひどい味の薬でしたよ。
でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。
だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。
それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。
そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。
まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。
心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。
だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。
               ◆◇◆
 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。
そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。
これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、
屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。
そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
               ◆◇◆
PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。
私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。
生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。
主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。
たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。
それはつまり、さよならを告げる、ということです。
 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。
内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。
私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。
何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かっ
たからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。
この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。
 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。
でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。
天国に行きたいと願う人ですら、まさ
かそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。
かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。
何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ
唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。
今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。
とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。
ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。
その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。
               ◆◇◆

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。
時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。
だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。
それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。
君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。
写真の下にはこんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。
それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。
「Stay hungry, stay foolish.」 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。
そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。


The Stanford University Commencement address by
Steve Jobs
CEO, Apple Computer
CEO, Pixar Animation Studios


カタール便り その1(10/15)

建設部門 福島晴夫

カタールに来てからほぼ2週間が経過し、カタールの状況が少し飲み込めてきました。

カタールは、ご存じのように天然ガスを主体として生産し、今年の9月下旬に千代田化工梶A日揮梶A三井物産鰍ネどが次々とカタールとリファイナリーなどのプロジェクト契約を結んで、まもなく合計1兆円以上の大規模な工事がスタートすると思います。

私の担当する工事は、カタール政府がドバイと同様、衛星写真に写る規模の観光開発を企てて海岸線に造成する”PEARL OF THE GULF ISLAND”への電力供給工事で、200612月に開催されるアジア大会を一つの目標にしているものと思います。幸い?なことに、この国は地下1 m2 m掘ると石灰岩が現れる地質構成で岩盤工学の世界ですが、現地に岩盤の専門家がいないために、私にとって大変おもしろい仕事になりそうです。

この国の公用語はアラビア語ですが、インド、スリランカ、パキスタン、フィリッピン、エジプト、ヨルダン、その他アフリカ、東南・中央アジアの人が出稼ぎに来ており、英語がほぼ共通語になっているので、言葉に全く不自由はしません。また、アラビア語の一部は、私の聞き慣れたトルコ語と似た言葉もあり、何となく便利に使えるようです。

ドーハの町は、車社会で歩行者はほとんど見られません。最も、日中、直射日光の下、体感温度40℃〜50℃の炎天下を歩いている人が少ないことは当然でしょう。気温は、1年間慣れ親しんだベトナムのダナンとあまり変わりませんが、緑が少なく、やはり砂漠の国だという感じがします。

ところが驚く事なかれ、町の中心部や公園は、きれいに手入れされた緑の芝や椰子の木が植えられて、まるでオーストラリアのゴールドコーストのような景観を呈しています。砂漠の国だからこそ、贅沢な資金を投入して芝のスプリンクラー設備を整備することも一つのステータスなのでしょう。

日本で発行されている観光案内にカタール人に合うことはほとんどないと書いてありましたが、毎日官庁で打合せがありカタール人にお目通りします。当然のことながら、彼らは上級職で完全に実権を握り、下で働いているのはインド、アラブ諸国など海外からの就職者のようです。町中でも、アラビア独特の服装をして高級車に乗っている御仁には道を譲った方が良いようです。とにかく、絶対的な権限を持っているのですから。好きな言葉ではないけれど、やはり「長いものには巻かれろ」でしょうか?

まだ、カタールに来て日も浅いので、この国について誤った感じを抱いているかもしれません。今後、よく観察させてもらうつもりで第一報を終了します。

なお、ホームページは、かなり砕けた内容にしていますので、こちらも訪問してください。


カタール海岸沿いの道路(緑がきれいだ)

海岸沿いの道路(左の建物は国会)


町中から離れた砂漠のレジデンス

この周辺は宅地造成が盛んで今後発展?